“すべてはシステムに従う”〜名もなき「透明なシステム」への思い〜

 
 
未来の学校のシミズです☀️
いつも記事などをご覧いただき、ありがとうございます!
 
 
これまで様々なかたちで、子どもたちや親御さんなどと関わりながら、
僕が、ずっと心の内(なか)で見つめ続けてきた、新しい「未来の教育/学び」の姿。
 
いまの学校教育に、特に決まった名称がないように、
この新しい仕組み(システム)にも、「固有の名前」はありません。
 
 
世の中には、いわゆる提唱者や組織の名前などを冠した
「⚫︎⚫︎式(メソッド)」や「⚫︎⚫︎理論」、「⚫︎⚫︎プログラム」といったものがたくさんありますが、
 
本当の意味で「公的なもの」というのは、その特徴を表した名前がつけられることはあっても、
個人や、特定の団体などに “属する” ものではないと思うからです。
 
 
 

僕たちはシステムの上で“踊り”ながら、夢を見る?!


 
好むと好まざるとに関わらず、僕たちは、さまざまな「システム」の下で生きています。
 
たとえば「経済」なら、貨幣経済/資本主義システムというものが根本にあります。
 
簡単にいえば、お金というものを所有することで、生きる上で必要なモノ・コトを交換(売ったり買ったり)するという仕組みが、すべての大前提としてあり、
さらに今は「中央銀行システム」という仕組みによって、日本のみならず世界の経済全体が “コントロール” されています。
 
 
あとは「時間」なんかも、典型的なシステムですね‥!
 
・学校が◯時◯分に始まるから、もう家を出る準備をしなきゃ。
・次のクライアントとの会議は◯月◯日だから、いついつまでに資料を完成させておこう。
 
「1日」を昼と夜とで12時間ずつに分け、それをさらに60等分した「分」という単位に基づいて、
社会のいろいろなことが決められ、僕たちは日夜、動いている。
 
また「1年」という時間についても、
ある特定の考え方に基づくカレンダー(暦)によって月や日が決められ、僕たちはそれに従ってすべて動いています。
 
時間や暦が、人や社会のあらゆる営みの“根っこ”に横たわっていて、
僕たちはそれに従って、毎日を過ごしている。
 
 
そんなふうに、空気のように “目には見えない” けれども
僕たちの暮らしや社会の背後(バックグラウンド)で、たえず機能しているようなもの。
 
もっと言えば、日常の暮らしや社会のもっとも奥深い部分で、
僕たちが何を考え、どう行動するかといった「振る舞い」を、根本から決定づけているもの。
 
それが「システム」です‥!
 
 
これは心理学的なたとえですが、自分が「気づいていること」の水面下で、実は、自分自身の考え方や抱く感情、世界の見方、物事への反応のしかたなどを決定づけている、「無意識」と同じようなイメージですね(^^)
 
 
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僕にはずっと、そんな個人的なものを超えた、名もなき「透明なシステム」に対して、何か思うところがありました。
 
自分が感じ取っているものが、いったい何なのか。
 
それを自分でもハッキリとつかまえることが出来ず、親をはじめ、一緒に過ごしていた友人、学校の先生など、まわりの誰ともその “コトバ” が通じず、苦悩ばかりが募っていったのですが(笑)、ふりかえれば思春期の頃から、そんな思いや “感覚” が強くありました。
 
 
世界中の子どもたちが、ごく自然なかたちで、
一人ひとりの内側(好奇心や情熱)に導かれるように、自分の世界を広げていきながら、

同時に、日々の体験のなかで、〈自分〉というものにも出会っていく。


外なる世界を学び知り得ていくことと、内なる自分を発見していくことが、一つに結びつき、
それが、まるで万華鏡のようにたえず変化しながらも、

そこに一人ひとりの夢(資質や才能)が、当たり前に開花していく。


そして、この地球に生きるみんなが、自立した存在として、お互いに調和して結ばれている。

ーーー

この絵が見えるのは、僕だけでしょうか?
こんなことは、ただの想像(イマジネーション)で、夢物語に過ぎないのでしょうか‥?

 
 

学校の教育/学びも「システム」が9割!?


 
上で書いたことにも通じますが、システムというのは嘘をつきません。
良くも悪くも、システム(仕組み)が、「人や社会の営みのありよう」の大枠として決めるということが、現にあるわけです。
 
さっきの無意識の話も、同じですね。
人間の行動の「9割以上は無意識」によって決まっているという話は、多くの人が聞いたことがあるかと思います(^^)
 
 
つまり、もし今の学校教育が、心のびやかに、子どもたち/生徒たちの個性・才能をいきいきと育むことが、現実として出来ていないのだとしたら、それは根本的に「システムの問題」ではないかと思うのです。
 
 
言うまでもなく、学校は、家庭とならんで、日本中の(そして未来を含む世界中の)子どもたちが「どのように学び、育つか」、そして一人の人間として「人生を生きていく基礎を、どのように築いていけるのか」ということを、根本から支える役割を担っています。
 
それにも関わらず、学校をめぐる状況は、かんたんに解決できない多くの問題を抱えていて、いろいろな “改革” を考えてはやってみるものの、問題はなかなか解決しないばかりか、むしろ物事はどんどん複雑になり、シビアな状況は深まっていくばかりのようにさえ見えます。
 
 
それは、なぜなのでしょうか?
そのような事態を前に、僕らは一体どうすればいいのでしょうか。
 
 
***
 
 
次世代の「新しい教育のあり方(システム)」の根幹をなすコンセプトについては、イラストを交えて、ざっと大まかなイメージをこの動画で話しています(↓)
 
 
 
 
これからの時代の「公教育の達成目標」が、一人ひとりの個性の色を引きだし、磨き、輝かせていくことだとしたら、学校そのものが、何か特定の “色”(到達すべき目標やカリキュラムを含む)を掲げ、それに準ずることを生徒たちに強いるのではなく、学校それ自体が “透明” である必要があります☀️
 
透明であればこそ、個々の多様性にみちた「カラー」を生かすことが出来るからです。
 
 
上の動画では、この新しいシステム自体が、「個々の多様性」に応じて、そして一人ひとりの「学びの展開」に応じて、その姿カタチを変幻自在に変えていく、“やわらかい” システムなんですよということにも触れているので、興味のある方は、ぜひ見ていただけたらと思います(^^)
 
(*この時は、まだ動画慣れしていなくて、若干 “かたい” ですが‥(笑)、これからどんどん自然体で撮れるようにしていけたらと思います⤴︎ )
 
 
 

小中学生でもすぐに実践できる、シンプルな仕組み


 
学校のシステムが云々‥と言うと、何か小難しい感じがしたり、
話が大きすぎて、自分とは “遠い”ところの話という印象もあるかもしれません。
 
でも実は、なんてことはありません!
 
 
この新しい教育/学びの仕組み(DNL)は、学校などの場に限らず、
シンプルに、個人としてもすぐに実践できるようなものです。
 
むしろ、今すぐ、個人として誰もがそれを実践できるようなものでなくては、
学校の現場で云々‥ということもないでしょう(^^)
 
 
特殊なスキルや才能などを必要とするようでは、いわゆるエリート教育や、”特殊” なオルタナティブ教育という位置づけのものに、あるいは教師の資質/能力に依存する度合いの高い「属人的なシステム」になってしまいますが、それでは「公」教育たりうることはできません。
 
でも、この新しい仕組み(DNL)は、人が本来、それこそ幼児から大人までが、無意識レベルで日々「自然にやっていること」を、ただそのまま(でもちゃんと目に見える形でシステマティックに)やるだけなので、
 
小学生から大人まで、はじめに「何をどうやるか」(=日々の学びのフロー)を一緒に作業しながら、感覚を掴んでいきさえすれば、本当に誰でも、すぐに実践できるようになります⤴︎
 
 
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詳しくはまた触れたいと思いますが、そういう意味でこの「次世代の学び/教育のシステム」に移行していくというプロセスは、これまでの歴史のなかで、僕たちが人工的につくりあげた「 “不自然” な学び/教育の仕方」を、人が本来、生まれながらにそうしているような「 “自然” のままの姿/あり方」に戻す作業ということもできると思います(^^)
 
環境問題などがわかりやすい例だと思いますが、人間が抱える(作り出す)問題は、すべて「天(=自然や宇宙)と地(=人間や社会)の不一致」にその原因があるということですね‥!
 
僕たちのあり方や営みが、“自然” が体現しているのと同じカタチに近づいていけばいくだけ、個人レベルでも社会・文明レベルでも、自ずからすべての問題は消えてなくなっていきます☀️
 
自然ということばが意味しているのは、自己最適、すなわち「自ずから、然るべき姿/あり方に自律的になる」という、広い意味での “生命” の本質だからです。
 
 
 

多様な子どもたちを、丸ごと包みこめる「透明な器」の学校へ


 
繰り返しになりますが、システムというのは、目には見えないけれども、それがゆえに、社会全体やそこに生きる僕たちの営みを、根本から決定づけているものです。
 
 
・目には見えない、“透明” さ。
・何ものにも属さない、“透明” さ。
・すべてを受け容れることのできる、“透明” さ。
・他の何とも競合することなく共存できる、“透明” さ。
・自然の理のままであることの、“透明”さ。
 
 
そのような場所に足を踏み入れていくのは、まさに自分自身との熾烈な闘いの道のりでしたが(笑)、
僕はこの「透明な場所」に、何か訴えかけてくるものがあるのを感じ、ずっとそれを “探し” 続けてきました。
 
 
システムがシステムたりうるには、それ相応の強度と普遍性を備えもつ必要がありますが、
この新しい教育/学びの仕組み(DNL)は、進歩/発展といいながらもクリティカルな問題を生み出し続けてしまう(‥涙)、僕たち人間の小さなマインドが “人工的” につくりあげたようなものとは、まるで異なる「自然」なものであり、そしてあらゆる意味で、「普遍的(ユニバーサル)」なものだと感じています。
 
 
さまざまある学校教育の問題を、あえて突き詰めて言ってしまえば、
「学校という『狭い枠』のなかに、子ども/生徒たちの世界が収まりきらなくなっている」
ということだと思います。
 
それが、ありとあらゆる形をとって、矛盾として噴き出している。
 
つまり今、僕たちが抱えている困難な問題を解決し、
学校が本当の意味で、関わるすべての人にとって「魅力的で生き生きとした場」になるためには、
 
単純に、学校という “器” が、
個々人の多様性に応じて、学びを展開/深化させていくことのできる「包括的かつシステマティックな仕組み」をベースとしたものに成長すればいいということではないかと思います。
 
 
 
胎児から赤ん坊へ、赤ん坊から幼児へ、
幼児から子どもへ、子どもから青年へ、
そして青年から大人へ‥
 
人が人生をかけて、その有り様を成長させていくように、
社会や学校のあり方もまた、時とともに変容していく “生き物” だと思います。
 
 
名もなき「透明なシステム」。
 
 
もしこれに興味を感じてくださった方は、ぜひ以下などもご覧いただけたらと思います(↓)